盛田昭夫:『とにかく思いきってやってみよう。間違ったらまた変えればいい』
起業家人名図鑑

あ行
穐田誉輝(カカクコム)
浅野秀則(フォーシーズ)
稲盛和夫(京セラ)
井深大(ソニー)
岩元貴久(ロックノーブル)
宇野康秀(USEN)
小川善美(インデックス)
小倉昌男(ヤマト運輸元)
折口雅博(グッドウィル)
か行
神田昌典(アルマック)
熊谷正寿(GMO)
くらたまなぶ(あそぶとまなぶ)
近藤太香巳(ネクシィーズ)
さ行
斉藤一人(日本漢方研究所)
澤田秀雄(H.I.S.)
鈴木敏文(IYグループ)
関口房朗(VSN)
孫正義(ソフトバンク)
た行
高橋滋(カシータ)
な行
中島武(際コーポレーション)
南部靖之(パソナグループ)
野尻佳孝(テイクアンドギフ・゙ニーズ)
は行
畠中平八(タヒボジャパン)
平野岳史(フルキャスト)
ビル・ゲイツ(マイクロソフト)
藤田晋(サイバーエージェント)
藤田田(日本マクドナルド)
本田総一郎(本田技研工業)
ま行
増田宗昭(カルチャーコンビニエンスクラブ)
松下幸之助(松下グループ)
三木谷浩史(楽天)
森下篤史(テンポスバスターズ)
盛田昭夫(ソニー)
や行
安田佳生(ワイキューブ)
柳井正(ファーストリテイリング)
わ行
渡邉美樹(ワタミ)
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盛田昭夫-ソニー株式会社創業者

 

盛田昭夫氏プロフィール


盛田 昭夫(もりた あきお、1921年1月26日 - 1999年10月3日)は、ソニー創業者の一人。
愛知県常滑市の造り酒屋に生まれる。旧制愛知第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。

1943年
海軍技術中尉時代に技術研究会で井深大と知り合う。終戦後、朝日新聞に載った井深の作った短波受信機の記事で消息を知り再会。
1946年 井深大らとソニーの前身、東京通信工業を日本橋に設立。
井深の義父の前田多門(元文相)が社長、井深が技術担当の専務、盛田が営業担当の常務となって事業を始める。国産初のテープレコーダー、ステレオ装置を完成。日本初のステレオ放送をNHKから行う。
1955年 日本初のトランジスタラジオを発売。この年から「SONY」のマークを使用。
1957年 世界最小ポケット型トランジスターラジオを発売。
1958年 社名をソニーと変更。
1959年 ソニー副社長に就任
1960年 アメリカ販社を設立し社長に就任。アメリカ放送大手CBSと提携。同年、世界初のトランジスタテレビ発売。
1961年 日本企業初のアメリカでの新株を発行、2時間で完売し「ソニー神話」が生まれる。
1971年 社長に就任。
1976年 会長就任。自ら企画したウォークマンで大ヒットを飛ばすが、一方で、家庭用ビデオ規格を巡り、 自社が率いるベータマックス陣営と日本ビクター率いるVHS陣営との激しい争いを繰り広げた。
1986年 最若手の経団連副会長となる。
1991年 勲一等瑞宝章授章。
1992年 英国王室から名誉大英勲章を受ける。
1993年 細川内閣発足の時には、民間からの候補として名前が挙がったが11月に脳内出血で倒れる。以後、ハワイで療養。
1994年 ソニーのファウンダー・名誉会長に就任。
1998年 米誌タイムの11月発売号で、ビジネスの世界で今世紀最も影響力のあった経済人20人として、米自動車王のヘンリー・フォード、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長らと並んで日本でただ1人、盛田氏を「メード・イン・ジャパンの名声を築いた」人物として選ばれる。
1999年 10月3日午前10時25分、肺炎のため、東京都港区の東京都済生会中央病院にて逝去。享年78歳。


盛田昭夫氏の格言

 
ひとたび社員に経営方針や理念が浸透すれば、 その企業は並々ならぬ力と柔軟性を発揮する。

日本は福祉国家ではない。つまり坐っていては食えない国だ自分が働かない限り何事も動きはしない
 
アイデアの良い人は世の中にたくさんいるが、良いと思ったアイデアを実行する勇気のある人は少ない。
我々は、それをがむしゃらにやるだけである

人は誰でも種々様々な能力を持っているものなのに、 どんなに優れた能力があるかを知らずにいる場合が多い。

「とにかく思いきってやってみよう。間違ったらまた変えればいい」


 

盛田昭夫氏の逸話

 
1990年には石原慎太郎と共著で『「NO」と言える日本』を出版、ミリオンセラーになった。
その当時のエピソードで、日本企業がバブル景気でアメリカの歴史あるビルや不動産を買収し、アメリカのメディア等が「アメリカの魂を奪った」と悪口を言ったのを聞いて、「アメリカ人はインディアンの魂(国土)を奪ったではないか」と言い返したのは余りにも有名である。

電気技師であった井深大とともに、ソニーを創設した時から四十年以上もの間、井深と盛田は、ともに執務室を隣合わせにしながらソニーの経営にあたったが、経営者が二人いることの難しさを、まるで反対に楽しんでいるかのようであった。
井深の天賦の才能は、技術者たちの能力を最大限に引きだすことにあった。盛田は、非常に優れた市場開拓者であったが、ソニーを今ある国際的な存在へと一新させると同時に、自らは、圧倒的なカリスマ性を持つ、日本のビジネス界の代弁者となっていった。

昭和28年に初めて渡米したが、アメリカのスケールの大きさと、急速に発展する経済の様子にすっかり打ちのめされてしまった。次の訪問国のドイツでは、もはや落ち着いてはいられない気持ちだった。
しかし、オランダのフィリップ・エレクトロニックス社を訪れたときのこと、この巨大な組織の本社が、歴史的国際小都市アイントホーフェン(南オランダの工業都市:20万)にあることを知り驚いた。このまちのスケール感と生活のペースなら、なんとかコントロール可能だ。彼は、井深に手紙で伝えた。「フィリップにできるのなら、たぶん我々にもできるだろう。」

昭和30年、テープレコーダーとソニー初のトランジスターラジオを携えた盛田は、再びアメリカに渡り、卸売り業者を一通り回ったが、ほとんど相手にしてもらえなかった。
最後に、ブローバ時計会社の仕入部長がこの小型ラジオを見て、ブローバの名前で市場に出せるならば、十万個仕入れたい、といってきた。これは、とてつもない額の注文だった。当時のソニーの総資産額を越えるものであった。しかし、盛田はソニーという名前を世界的なブランドにすることに強い決意を持っていた。たとえ、井深や他の役員が注文に応じるように電報で指示してこようと、ブローバの申し出を断った。後に、このときの決断が、彼の人生の中で最良のものであったと語っている。

ソニーをグローバルな会社にする、という盛田の夢の中心には、いつもアメリカの市場が燦然と輝いていた。
米国ソニーは、昭和35年に盛田が設立し、30年有余に渡り自らの手で育てたものだが、おそらく最も偉大な作品といっていい。盛田は、外国の企業だという印象を与えることなく、ソニーという会社を最強の存在にしようとしていたが、例外的とはいえそのことに成功したのだった。すなわち、昨年のハリスの世論調査によと、GEとGMを抜き、ソニーは、米国消費者から最も有名なブランドとして最高の評価を与えられた。

昭和38年には、盛田は、家族とともにバイオリニストのネイサン・ミルシュタインから転借したマンハッタンアッパーイーストサイドにある広々としたアパートに移り住み、一年以上をそこですごした。実際、米国人に物を売るには、彼らについてのより多くの情報と暮らしぶりを知ることが不可欠だと判断したからであった。井深は、彼を行かせることには気乗りがしなかった。会社のNo.2を海外に住まわせるために送りだした企業は、かつて日本にはなかったからだ。盛田が、二ヶ月に一度東京に一週間ほど戻ってくると約束した時、ついに井深も了承したのだった。

盛田がニューヨークに移り住むことがソニーにとって不安な材料であったと同時に、その当時全く英語が話せなかった妻のよしこと、三人の子どもたちにとっても、移住はそれぞれの生活の深刻な崩壊を意味した。しかし、家族にとって、盛田の発言は法律のようなものであった。西欧風なオーラを放ってはいたが、彼は家庭にあっては全くの伝統的な日本人の夫であり、どちらかといえば、盛田は実の父親よりも厳格であった。

五番街に落ち着くとすぐに、盛田一家はアメリカ社会に溶け込むために、積極的に外へ出ていった。六十年代の中ごろまでには、依然として東京から通う生活を続けていたが、ニューヨークに彼らの確固たる足掛かりを築くとともに、盛田は、アメリカで最もすぐれた人的パイプを持つ日本人の実業家として知られるようになっていった。パンナム、IBM、モルガン信用信託銀行のただ一人の日本人国際諮問委員会の役員であり、アメリカの各界各層における多彩なビジネスリーダー達と永続的な交友関係を築き上げ、ソニーに有益となるようにそれらの人脈を駆使してみせた。七十年代から八十年代にかけて盛田が計画したすぐれた合弁事業---CBS/Sony、日本テキサス・インストルメント、ソニー・プルーデンシャル生命保険その他---は、すべてアメリカの経営幹部と彼との個人的なつながりによって進められたものである。

盛田の交友範囲は、実業界にとどまらなかった。七十年代から八十年代にかけての米国駐日大使は皆、東京の盛田の自宅ですごした楽しい夕べの思い出と、名伏しがたいある種のソニーへの忠誠心を胸に帰国するのだった。

盛田のことを以前から知る欧米人にとって、仕事上知りあった「典型的な」日本人ビジネスマンとは全く対照的に、彼は、無口でも、不愉快でも、非社交的でも、なぞめいても、不可解でもなかった。反対に、彼は、まばゆいばかりのエネルギーを放つ精力的な人間だった。人目を引く魅力的な人で、40代前半には白くなってしまった絹のような美しい頭髪をしており、それを明治の伊達男に倣って真ん中で分けていた。日本人にはめずらしく、灰色がかった瞳をしていたが、これには先祖には白系ロシア人の血が混じっているのではないかとうわさされた。盛田の人間に寄せる好奇心には、際限というものがなかった。たとえほんの一瞬であろうとも、彼に会ったことのある人は例外なく、古くからの友人に会ったような印象を受けるのであった
。
ソニーフランスの前社長ミッシェル ガリナ・ミニョー氏は、盛田がバヨーンヌ(フランス南西部の市4.2万)にある新工場の視察旅行に出かけたときのことを忘れられないでいる。帰りの車中、工場の回りにある野原の隅あたりに、一軒の白い家を目にしたところで、彼は止まるように言った。盛田の説明によれば、そこに住んでいる方々は、ソニーのご近所の人たちであるから、お会いしてご挨拶したいとのことであった。たまたまそこのご主人という人は、アイスクリームを商売にしている方だったので、なんと公用車と警察バイクの一団を外に待たせて、ヨーロッパ中のアイスクリームを試食しながら家人と一時間ほどすごしたのであった。
盛田の光り輝くさまは、天賦の才能によるものであった。様々な席上での盛田を知る人たちは、彼の存在そのものが席上を明るく照らしていることに気づくのである。彼は、文字通り光を放っていたのだ。私自身もその光景を目の当たりにしたことがある。平成四年の二月、彼が倒れる二年前、スイスのダヴォス(東部の保養地)で開催された世界経済フォーラムに彼は姿を見せた。私は、オブザーバーとして参加していた。

彼一人だけが輝いていたのでは決してない。ネルソン・マンデラ、チャールズ皇太子、ヘンリーキッシンジャー、李鵬首相も出席していた。しかし、ホールの端の方を大股で歩きながら、振り向いて友達に挨拶していたのは、盛田であった。また、盛田は、総会での主役の座を奪ってしまった。完璧とはいえないけれど生き生きとした、熱意のこもった英語でステージの上から話し始めた。彼は、もしも日本の消費者の心をとらえる製品を皆様が提供されるならば、また実際に提供できた時、日本の市場は皆様に開かれるのだ、と力説して参加者の不満をやわらげたのだった。それから、輝くような不敵な笑顔を浮かべながら、アメリカ産業の国際競争力は、もしも上に立つものが、自分たちの受け取る高い報酬をもっと減らすようにすれば、さらに改善されるかもしれない、と提案した。明らかに、この提案は聴衆に平手打ちを喰らわしたようなものであったが、暖かいムードの同業者同士のことであり、打ち解けた中での洒落たユーモアだったので、大枚150万円を支払って参加したアメリカのCEO達も、魔法にかけられたように立ち上がって拍手喝采したのであった。

盛田の放っていた輝きそのものは、彼の残したソニーへの遺産の一つとして今も生き続けている。


 

盛田昭夫氏の著書

 
・ 盛田昭夫語録
・ MADE IN JAPAN(メイド・イン・ジャパン)―わが体験的国際戦略
・ 学歴無用論
・ 21世紀へ ジャストメッセージ


 

盛田昭夫氏の関連ホームページ

 


・ソニー

 

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