本田宗一郎:『大事なのは、新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の過程に99パーセントの失敗が積み重ねられていることです』
起業家人名図鑑

あ行
穐田誉輝(カカクコム)
浅野秀則(フォーシーズ)
稲盛和夫(京セラ)
井深大(ソニー)
岩元貴久(ロックノーブル)
宇野康秀(USEN)
小川善美(インデックス)
小倉昌男(ヤマト運輸元)
折口雅博(グッドウィル)
か行
神田昌典(アルマック)
熊谷正寿(GMO)
くらたまなぶ(あそぶとまなぶ)
近藤太香巳(ネクシィーズ)
さ行
斉藤一人(日本漢方研究所)
澤田秀雄(H.I.S.)
鈴木敏文(IYグループ)
関口房朗(VSN)
孫正義(ソフトバンク)
た行
高橋滋(カシータ)
な行
中島武(際コーポレーション)
南部靖之(パソナグループ)
野尻佳孝(テイクアンドギフ・゙ニーズ)
は行
畠中平八(タヒボジャパン)
平野岳史(フルキャスト)
ビル・ゲイツ(マイクロソフト)
藤田晋(サイバーエージェント)
藤田田(日本マクドナルド)
本田総一郎(本田技研工業)
ま行
増田宗昭(カルチャーコンビニエンスクラブ)
松下幸之助(松下グループ)
三木谷浩史(楽天)
森下篤史(テンポスバスターズ)
盛田昭夫(ソニー)
や行
安田佳生(ワイキューブ)
柳井正(ファーストリテイリング)
わ行
渡邉美樹(ワタミ)
・リンク集
・店舗案内


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top > 本田宗一郎(本田技研工業株式会社)

本田宗一郎-本田技研工業株式会社創業者

 

本田宗一郎氏プロフィール


本田 宗一郎氏(ほんだ そういちろう、男性、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は、本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。
静岡県磐田郡光明村(後の天竜市、現在の浜松市天竜地区)出身。


1906年
静岡県磐田郡光明村(現浜松市)に生まれる。
1922年 二俣尋常高等小学校卒業、「東京のアート商会」へ入社。
1928年 独立し、浜松市に「アート商会浜松支店」をつくる。
1931年 当時木製だった自動車ホイールを鉄製に変え特許をとる。
1934年 アート商会浜松支店を閉店し、東海精機(株)を設立。
ピストンリングの製造開始。
1935年 浜松高等工業高校(現静岡大学工学部)の聴講生となる。
1936年 全日本自動車スピード大会に出場、自作車で120kmのスピード新記録を樹立したがレース中に事故。
1948年 本田技研工業(株)を設立。本格的オートバイの生産を開始。
1952年 小型エンジンの発明その他で藍綬褒章を受章、カブ号F型完成。
1960年 ホンダ技術研究所を分離独立し、(株)本田技術研究所とする。鈴鹿製作所操業開始。
1961年 イギリス、マン島T.Tレースで完全優勝。(125cc、250cc)
1965年 F-1メキシコグランプリでホンダF-1優勝。
1969年 ロス・アンゼルス名誉市民に。
1972年 アメリカ金属学会の名誉終身会員に。
1973年 天竜市名誉市民となる。本田技研工業(株)取締役社長を退任。
1979年 ベルギー王国より王冠勲章コマンドール章受章。
1981年 勲一等瑞宝章を受章。
1983年 本田技研工業(株)終身最高顧問に就任。
1989年 日本人として初めてアメリカ自動車の殿堂(A.H.F)入り。
1991年 8月5日逝去、84歳。旭日大綬章を受章、正三位に叙せられる。



本田宗一郎氏のエピソード

 
・
宗一郎が11歳の時、浜松に飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車で不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
・ 20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎はまだめずらしかった洋服を好んで着ていた。
・ 本田は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。本田自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を一切入社させず、本田は晩年、自らの名前を社名に冠したことを後悔したという。
・ 鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「個人名をつけるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。
・ 有名な言葉には「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない。」
「(アイルトン・セナに対し)最高のエンジンを作るよ。」(この言葉を聞いたセナは感激の涙を流した)等がある。また、後輩の社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
・ 南青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。
・ 生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。
・ 派手なシャツやネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回し、地元鈴鹿の人間からは冷たい目で見られていたが気にしていなかったという。
・ 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
・ 勲一等端宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとした。


 

本田宗一郎氏の格言

 
・
「大事なのは、新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の過
程に99パーセントの失敗が積み重ねられていることです。」
・ 「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。99%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である。」
・ 人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。
そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。
自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない。
・ チャレンジして失敗することを恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。
・ 人間が進歩するためには、まず第一歩を踏み出すことである
・ 人間、生をうけた以上どうせ死ぬのだから、やりたいことをやってざっくばらんに生き、
しかるのち、諸々の欲に執着せずに枯れ、そして死んでいくべき、という考え方だ
・ 長い目で見れば人生にはムダがない。
・ 開拓者精神によって自ら新しい世界に挑み、失敗、反省、勇気という3つの道具を繰り返して使うことによってのみ、最後の成功という結果に達することが出来ると私は信じています。
・ 伸びる時には必ず抵抗がある。
・ 何かを深く信じれば、誰でも自分の中に大きな力を見つけだし 自分を乗り越えることができる。
・ 身のまわりにいくらでも転がっている幸福から、自分のものを選び出し、それを最高のものに高めることだね。
・ 新しい発想を得ようと思うならまず誰かに話を聞け。
・ 時間だけは神様が平等に与えて下さった。
  これをいかに有効に使うかはその人の才覚であって、
  うまく利用した人がこの世の中の成功者なんだ。
・ 人間に必要なのは困ることだ。
  絶対絶命に追い込まれたときに出る力が本当の力です。


 

本田宗一郎氏の関連の著書

 
・本田宗一郎夢を力に―私の履歴書 日経ビジネス人文庫
・俺の考え 新潮文庫
・やりたいことをやれ
・スピードに生きる
・本田宗一郎語録 小学館文庫
・私の手が語る―思想・技術・生き方


 

本田宗一郎氏の関連ホームページ

 
・本田技研工業株式会社

 

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